※全て写真提供は神戸市によります。
凄まじい大きな揺れ、そしてオンボロ(失礼)の小さな2人部屋の男子独身寮に住んでいた私は、ベッドの上にある棚に置いた全ての本や書類が頭の上に落ちてきて目が覚めました。いや、目が覚めたというより、叩き起こされた。
1月17日の早朝5:46分。私は何が起きたのか判らず飛び起きました。各部屋から飛び出してくる同僚たち。そして繰り返す余震。あまりの衝撃に自分が何をしているのか、何をすべきか理解ができませんでした。丁度30年前の今日の出来事です。
私は当時大学を卒業し、初めての勤務地神戸の造船所で働いていました。独身寮は神戸市垂水区にありました。当然ながら目が覚めなかった同僚はおらず、その後、全員がアパート外に出て点呼が始まりました。「すごい地震だったなぁ。」「マジ、びびった」「俺んとこテレビがひっくり返ったぜ」当時はそんな会話を友人たちとしながら想像をはるかに超えた揺れに各々がびっくりしていたくらいです。ただ、その時点で私たちはこの大震災の全体像を全く理解していませんでした。急ぎ私は実家(埼玉)に電話1本できただけマシでしたが、その後電話、水道、電気などのインフラ設備が完全に破壊されていることに気づきました。従って、詳しい情報がありません。その頃はまだ私達は(不謹慎ですが)、「会社も今日はさすがに休みにしてくれるんじゃない?」などと呑気な会話をしていた記憶があります。ただ、その後少しづつですが、情報が入り始めました。
「(会社に出ようと)駅まで歩いて行ったけど、電車なんか動いていないし至る所で家が崩れている」
「腹が減ったのでコンビニに行ったけど、食料品が(お菓子含めて)何もないぜ!」
「トイレ、水流れない、、、(その後の会話省略)」
周りを車で散策した者、ラジオで状況を聞いたもの、その後、刻一刻とこの震災がもたらした事態が甚大なものであることを理解し始めました。
その後の衝撃的な映像や写真はうっすらとでも皆さんもまだ覚えておられるのではないかと思います。
以後の震災の被害状況は省きます。
とにかく私が覚えているのは、1、(遠方から来て独身寮に入っていた僕たちは比較的幸いでしたが)多くの死傷者が会社の中やそのご家族に普通にいたこと、2、17日の夜、ジェームス山(垂水にはジェームス山という小さな山があります)を独身寮から長田方面を見ると、山の稜線に沿って(はみ出して)、赤く、オレンジ色の明かりがみえたこと(異様な光景。長田での大火災だったのだと後から知ることになりました)、3,神戸の人やボランティアの人を含めて一体となって「頑張ろう!神戸」の掛け声に周りの方を思いやる空気が自然に生まれ、その後復旧・復興を皆で頑張ったことです。食料・水が足りないこと、次にトイレの問題が辛かったと今でも思います(震災1か月後くらいでしょうか?会社の加古川に住んでいる先輩にお風呂にいれさせてもらい、とても安堵したことを覚えています)。
そう、あれから30年。思うととても感慨深く、そしてその頃の神戸の様子が思い返されます。
神戸は復興しましたが、当時ご不幸や苦難に見舞われた方に改めてお悔やみを申し上げるとともに、7年間お世話になった港町神戸の更なる発展を祈るばかりです。
今日は大震災から30年という節目にあたり、少し備忘録的にコラムを書いてみました。